幼年期の終わり

幼年期の終り (ハヤカワ文庫 SF (341)を読み終えたところにタイミングの良いニュース。

電子天体望遠鏡の能力が格段に上がっているが、それにつれて私たちの太陽系の外で新しい惑星がどんどん見つかっている。その数は数千の単位になっている。この数は宇宙の大きさを考えるともっともっと増えていくだろう
その最新の惑星は、プロキシマ・ケンタウリで見つかった惑星で、プロキシマ・ケンタウリbと呼ばれている。この惑星の太陽からの距離を考えると水がある可能性が高いそうだ。似たような環境の惑星はたくさん見つかっているが、最も近い太陽系で見つかったのは初めてだそうだ。最も近いと言っても4.25光年も離れているので近くもないが宇宙の規模で考えると近いということなのだろう。

近いと言っても現在の技術では、到着まで7.3万年かかるということで、新しい技術の航行システムで6年から14年ということだが、いつ実用化されるかも分からないので当面は、この惑星に生物がいても、その生物が高度に発達した技術を持たない限り、地球人がその隣人に会えるのはずっと先のことだ。

前に話題になったHD40307は、地球から44光年離れた場所にある。6倍近くも遠い。前にこのHD40307の周辺に3つの惑星が新た に見つかったが、その中のHD40307-gと呼ばれる惑星は太陽からの距離が、地球と同じく水が存在できるゾーンにあり、水が存在する可能性があると推測されるそうだ。つまり、そこには生命がいる可能性がある。これは、今回のプロキシマ・ケンタウリの惑星と同じ。

「幼年期の終わり」に出てくる NGS549672 は、りゅうこつ座の方向にある40光年離れた惑星である。小説では、ここから巨大な宇宙船にのって「上帝=Overload」と呼ばれる宇宙人が管理者と してやってくる。彼らは人類の進化と人類の種としての終わりに立ち会うというようなお話だ。古い小説だからネタバレは問題ないだろう。ちょうど読み終えた ばかりのタイミングで、地球から40数光年の場所に生命がいるかもしれない惑星が発見されたというニュースで驚いた。小説では、NGS549672 は地球より大きな惑星だが、HD40307-gは地球の7倍の大きさがあるそうだ。プロキシマ・ケンタウリbは大きさの記載は見つけられなかった。

HD40307-gが大きな星ということは空気や水があっても重力が強く、空気や水は重く、生物がいても地球の生物よりは小さいかもしれないと想像するがどうなのだろう。

小説の中に津波のシーンがあるが、読んだのが昔なので完全に忘れていた。あらすじと結末は当然覚えていたが、新しい小説のように楽しめた。ストーリーのつなぎかたなど前回読んだときは考えもしなかったが、うまくできている。クラークさんに申し訳ないほど偉そうだが、本当にそう思った。

この小説 を読もうと思ったきっかけは、先日飲んでいて話にでた日本人の運命からだ。アメリカの基地問題と中国との尖閣問題から、日本人の生き方を考えた時に、この小説のことが浮かんだのだ。戦後の日本には管理者としてのアメリカが存在していて、普段大抵のことは自由だがいくつか制限されていることがある。何がかは 明確ではないが、日本の国益とリンクするので、本当に制限されているのか、国益としてしない方が良いのかというあたりは良くは分からない。小説では、核兵 器を持つことや宇宙開発は制限される。その代わり、その指導により国別の政府が有形無実化し、産業が効率化し、世界はユートピアとなり人類は誰ひとりとし ての望まない労働を強いられることなく、好きな仕事を選んで働いている。また、交通システムも発達して、誰でも二か所に家を持ち、大抵は遠く離れた家を簡 単に行き帰しているというように幸福な暮らしをしている。

日本もまた同じように上帝のような存在があることは別にして、経済発展を遂げかな りの程度、世界の他の地域と比べれば国民の豊かさは確保されるようになった。だが、このシステムは内と外から崩壊しようとしている。一つは、国民の目標 だったり価値観の多様化に対応できないということ。さらに、このコップの中の安定をもたらしていたシステムが、つまりアメリカの存在が安定しなくなったと いうこと。小説では、人類は上帝に守られ見守られながら「進化」する。日本人も進化しなければいけないのだろうか。

小松左京の 「日本沈没」は壮大な日本人論の序章で、日本列島を失った日本人が世界を彷徨いながらアイデンティティを求める小説が、後から書かれる構想があったと聞い たことがある。これこそ、今の日本人が考えなければいけないことだ。「幼年期の終わり」では進化を遂げた人類は別の存在に姿を変え、地球を捨ててその歴史 も記憶も忘れ去り、別次元の高度な生命に進化する。日本人が同じように「進化」すべきなのかどうか。小説では、「種の進化」は、ある意味で「種の死」とし て描かれる。そういう進化をするのか、守らなければいけないものは何なのか。

「幼年期の終わり」の最後の人類の世代は、歴史上初めて人類と しての幸福な暮らしを実現する。それは、物質的な生活だけではなく、精神的にも幸福を追求することが実現できたからだ。、それは、人類の愚かな核戦争や宇 宙進出で、宇宙規模の災害を引き起こさないために管理者が派遣されたからこそ実現できた。管理されないと破滅的になってしまう人類が描かれているが、日本人はどうなのだろうか。

グローバル化とネットワーク化により、もはや日本人とは何かということを考えることがおかしいかもしれないと、ここ まで書いて思うが、どちらにせよ、日本人であろうとなかろうと自分のことを考えなければいけないのは事実なので、幸福を追求することと、自分はどこから来 てどこに向かうのかをみんなが考えなければいけないのは事実だ。

小説に描写される宇宙の果ての風景を読みながら、いつも身の回り3メートル のことばかり気にかけているが、それが何と視野の狭い生活かと思っていた。そこに最初のニュースの4.25光年先の惑星のニュースだ。何光年先まで考えられな いが、せめて地球的な規模で物事を考えなければと思った。

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