写真の物質性

今年、デジタルライカを買ってからデジタル写真も増えてきた。デジタルはPCで表示して見ることができるので、あまりプリントしない。一方、フィルムは現像しただけだとネガなので良くは分からない。なのでペタを取ってコマを選んでワークプリントしてようやく写真として分かってくる。

ここから考えるのは、アナログ写真の物質性のこと。フィルムを使って撮って、何かにプリントする。大抵は紙か紙のようなものだが、液状の乳剤を暗室で塗れば、どんなものにでもプリントできる。これをやろうと思っているが、まだ作業にはかかっていない。フィルムや印画紙が無くなったら、自分で作って写真を続けるために今から練習をしておかなければ。

アナログでは写真を作るすべてのプロセスで物質が絡んでくることが、デジタルとは違う。手で触れられる写真はデジタルでもプリンターでプリントできるが、化学反応によって作るられる物質としての写真は、デジタルよりも一回性が高い。引き伸しの露光時間は正確にコントロールできても、現像時間、温度や処理液の疲労など、変数が多いからだ。もし覆い焼きや焼き込みをしたら、完全に同じものは一回しかできない。一方デジタルでは、設定を保存すればある程度の量産は可能だろう。

ユーミンの歌の「泣きながらちぎった写真を手の中でつなげてみる」写真は、歌の当時がアナログ写真だったからではなく、 別れた恋人の象徴性はアナログの物質としての写真でなければいけない。一回性の高いアナログプリントには、デジタルの今となってみるとアウラが残っている。

たとえ、制作過程で背中が痛くなっても。

感度分の16で有名な写真家の渡部さとる氏が、twitterで#from2bのタグで写真について呟いているが、写真の作品制作についてだ。あるいはモノクロで撮る意味などだ。氏のつぶやきをきっかけに話題が盛り上がっている。私も前から人になぜ写真を撮るかよく聞かれるので、写真を撮ることについて考えていた。だたし、写真は作品だけではない。

写真には三種類あると考えている。一番は当然、記録としての写真だ。二番は美術作品としての写真。それから三番目にカメラの試写としての写真だ。

記録としての写真の幅は割と広くて、報道などの社会性の高い写真はは別にして、個人にとっては、もちろん自分の記録、記憶の代用ということはまず一番だ。上の中国の写真のように記念写真が代表的だ。ただ自分が写っていなくても、その場所に存在したという証拠写真として、その場の風景や物を撮るのもその亜流だし、それから、その場面・景色・時間・対象を所有したいという欲求を画像として持つことでかなえるということも含まれる。コレクションとして鳥の写真を撮って画像をためてゆくなどが所有の写真の典型だ。画像が対象の代替物というわけだ。

二番目は作品。写真を自己表現に使って作品を残すと言うこと。ただ、これも簡単なようで範囲は広い。それは、写真という作品がカメラという工業製品に依存としているために、他の表現形式に比べて参入障壁が低く、たとえ個人の技術が無くても作品らしきものが作れてしまうからだ。画でも音楽でもある程度の技術の習得が表現の前に必要だが、写真の場合には高い人間的な技術と低いそれとの差が分り難い。カメラが優秀ということもあるが、写真の特性として被写体に依って作品が成立する可能性が高いということも影響すると思われる。

最後の試写としての写真とは、要は機械としてのカメラ好きが撮る写真だ。このカテゴリーはどちらかというと私の写真のカテゴリーだ。ぼろぼろのカメラが写るかとか、このレンズはあれと比べて違う写りをするかを比べてみるとかだ。f1.4の好みのレンズを使って夕方とか夜に写真を撮って、どれだけ写るか試すなどもそうだ。だから相も変わらずの写真ばかり量産することになる。

写真はx100を持って行ったダブリン。フィルムがメインだったが、現像しただけでまだべたも取っていない。

DSCF3938