「日本語が亡びるとき」

日本という国がなくなっても、たとえば日本沈没というようなことが起こったり他の国に併合されても、日本語をしゃべり、「源氏物語」や「吾輩は猫で ある」を読んで日本の歴史と文化が残ればそれでいいかとも思っていたが、その思いはこの本を読んで崩れ去った。それは逆だった。国や社会が無くなれば言葉 もなくなる。言葉がなくなれば文化も消える。

日本語に限らずすべての国語は歴史と偶然の産物で非常に脆いものだということが分かったのだ。 日本列島がもっと中国本土に近かったら漢文が中心で漢文を中心に文化が発展し、漢字を日本固有の言葉に組み込んで日本語を生み出すことはなかったと著者は 書いているが確かにそうだろう。中国の影響下にあって漢文を使わなければいけないとしたら誰も日本語に注意を払わない。現に中国の強い影響下にあった韓国 とベトナムは科挙の制度を取り入れていた。科挙とは漢文を習得することに最大のエネルギーを使うことだ。すべてが漢文を中心に組み立てられる。

中国の影響を受けずうまく漢文を日本語に取り込んで国語を作り、それを最大限に利用できたことと、日本に文字を読んで楽しむ国民が多数いたことで日本の文学や文化は世界に誇れる水準になってきた。

百科事典の「ブリタニカ」の日本文学の項は、1万6千文字を使って日本文学が世界でもっとも主要な文学のひとつであることが説明されているという。確かにフランス語がまだ存在しなかった頃に「源氏物語」はすでに書かれていたことを昔習って日本人として誇りにしてきたものだ。しかし、今、誰が「源氏物語」を原文で楽しむことができるのだろうか。100年ほどしかたっていない漱石でさえ読むのが難しいのが正直なところである。

その誇るべき日本文学でさえ、優れた翻訳が作られ、英語になって初めて世界的に知られるようになったのである。川端康成や村上春樹が日本語で世界で読まれるはずはない。世界に受け入れられるのは英語でなければいけないのである。

19 世紀から20世紀にかけて起こった歴史の偶然が、世界の公用語をフランス語から英語に変え、そしてまたインターネットの登場によってこの流れは加速されて いる。日本人の作家が日本語で書くのは日本語でしかかけないからで、仮に英語も同等に使えるとしたら日本語で書くだろうか。

将来、英語でも書ける日本人の作家が生まれても、日本語で書くだろうか。仮に英語で書く日本人作家が英語で書く作品は日本文学だろうか。カズオ・イシグロは日本人の父母を持つが日本文学の作家ではない。

世界で共有されるべき文化活動や知識の集積は英語で行われるのが当たり前になってきている。その中で日本語で書かれるものは世界の文化の周辺のとるに足らな いものになってゆくのだろうか。すくなくとも、評価や金銭的な成功につながらないものについては、有能な人は英語で書くことが可能なら、現地の言葉で書く ことにエネルギー使わないことは明白でだから、英語でない文化や文学はだんだん活力を失っていくのだろう。

より効果的な英語教育の是非は 叫ばれていることは事実だが、それはどの程度か。シンガポールのように日本語を捨てて英語だけを教育すれば英語の能力は高まるだろう。どこまでやるべき か。つまり日本語を捨てるべきかどうか。世界の経済的文化的な融合は、日本語の将来を明白に示してるのは著者の意見だ。本当にそう思う。問題はそれがいつ かだろう。100年先か、200年先か。私たちもすでに100年前の日本語をすでに読めない。100年後の英語と融合した日本語も私たちは読めないだろ う。

この本を読んで引用されていた漱石の「三四郎」の一節が興味深かった。日露戦争が終わって3年後の1908年に連載されたその小説 で、漱石はロシアという大国に勝った日本に異常な自信をもった傲慢な日本人は亡びると予想している。日露戦争に勝って浮かれている日本人に警鐘にならした のだ。小説が書かれた37年後に日本は無条件降伏することになった。この小説のこの部分のことをすっかり忘れていたが、日本人は100年たった今も高度経 済成長を経てアジアの強国意識をさらに強めて今にも戦争しそうな勢いだが、漱石でなくても「亡びるね」と言いたくなる感じだ。

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写真はドレスデン