ゴッホの本当の話

私の世界についての理解は生半可なものが多い。それを、また気づかせてくれたのは、NYTで読んだ、ヴィンセント・ヴァンゴッホについての話だ。

私の理解では、ヴィンセントの弟のテオが、生涯を通じて、兄を支え、その死後に画家として評価されるものにしたということだ。

でも、事実はそうではない。

ヴィンセントが自殺した後、1年もしないうちにテオは病死している。残されたのは、結婚後21ヶ月の未亡人、ヨハンナで、生後数ヶ月の息子がいた。そして、テオは評価されない、ヴィンセント400枚の作品と数百枚のドローイングも残された。

亡くなったのは、ヴィンセント37歳でテオは33歳だった。ヨハンナもまだ28歳だった。

テオは数枚の作品を、多分安い値段で売ることができていたが、美術界では評価さない画家として、ヴィンセントは亡くなった。この後に、何も行われなければ、ヴィンセントが世に知られる事はなかったのだろう。

ヨハンナは、今までもヴィンセントの今に至る評価に対して多少の貢献をしたと考えられていたが、それは、そう大きくもないとも考えられていた。それは女性であったことと、画商や美術のバックグラウンドが全くなかったからだ。彼女は、結婚前に語学教師としてトレーニングを受けていた。

2009年にヨハンナの日記が家族により公開されて、多くの事実が明るみに出た。

美術史家のハンス・ルイテン(Hans Luijten)は、ヴィンセントの手紙やヨハンナの日記をもとに、1冊の本を表した。「オール・フォー・ヴィンセント」と言う本で2019年にオランダで出版された。この著作が、この3人の多くの事実を明るみに出した。

夫テオの死後、パリから故郷のオランダにに戻って、ヨハンナは生活のために下宿家を開いた。ヴィンセントの友人の画家が、ヴィンセントの作品をパリに置いて展示会などを開いて売っていく方が良いと言うアドバイスをするが、彼女はそれに従わず、作品を手元に置いた。下宿屋の壁にその作品が飾られていたと言う。

彼女は日記に書き残している。「亡き夫は2つの仕事を残していった。1つは幼い息子のヴィンセント(テオは、兄の名をとって息子につけた)、もう一つはヴィンセントの作品であった」。

テオは多くのヴィンセントからの手紙も保管していた、彼女はそれを一つ一つ読み始めたそして、ヴィンセントの生活や不眠症、貧困、自信喪失などを理解していった。また、自分の作品についてたくさんのことを書き残していた。描いている作品の事や読んでいる本、インスピレーションを得た他の画家の作品等についてだ。

ヴィンセントの作品を世に出すために学ぶ一方、地元の様々な集会などに積極的に参加するようになっていたと言う事だ。ヴィンセントの手紙を読み、自ら抱いていた社会正義への願いと結びつけ、ヴィンセントの他の人に何かを伝えようと言う思いを共有していった。

ヴィンセントの作品のために、テオの友人の画商などにコンタクトをするが、ヴィンセントの作品は、俗悪で野蛮として取り合ってもらえなかった。彼女はこれを自分が女性であるからまともに扱ってもらえないと言うふうにも理解していたようだ

1890年頃から、美術界の潮目が変わっていた。リアリズムと神秘主義が融合するような動きが始まっていたのだ。印象派から何か新しいものへの動きだ。このために徐々にヴィンセントの作品は評価を受けるようになってきた。1892年にヴィンセントの単独の作品展をアムステルダムで開いている。

そこからヨハンナの努力で、ヨーロッパでヴィンセントの評価が高まっていく。彼女は語学教師だったから、フランス語、ドイツ語、英語に堪能だった。それを生かしてヨーロッパ各国に美術関係者に手紙を書いたりして、徐々にヨーロッパ各地の美術会の関心を集め、1895年にはパリで展示会も開かれた。

その後ヨーロッパ各地で100回目の展示会を開いたそうだ。1905年にはアムステルダム市立美術館で、ヴィンセントの作品展を開き、すべてを自分で取り仕切った。この作品展は484もの作品を展示したと言うことだった

この時点では確実にヴィンセントの作家としての地位は確立していた。売ろうと思えばほとんどの作品は売れたはずだ。これは画家としてのヴィンセント本人のストーリーと作品をパッケージとして、ヨハンナが確立したからだ。そして、それは彼女1人の手によってなされた。この作品展の後でヴィンセントの作品の価格は何倍にもなったと言うことだ。

そして、今に至る、画家としてのヴィンセント・ヴァンゴッホが理解された。

これを読んで、何も知らなものだと、改めて思った。