「写真で何がやりたいのでしょうね?」

二日酔いを覚ますために近所をカメラを持って歩いたのだが、撮った写真も同じようなものだ。

何がいけないかとというと、簡単に言うと「花鳥風月」。美しいものもあるが、何かあるわけではないし、同じような写真は無数にある。それから、明確な対象が写っていない抒情的な写真。これも たくさん撮っている。昨年の今頃は壁に写った影ばかり撮ってプリントしていた。なのでプリントしていても意気は上がらない。問題はでは何を撮れば良いの か。

写真を見ていただいている写真家の先生に、いつも聞かれる。 「写真で何がやりたいのでしょうね?」でも、何も答えられない。考えて見ると多分、シャッターを押してフィルムに光が記録されること自体が好きなのだ。 撮っているものは花鳥風月は避けようと思いつつも、凡人の美的感覚(つまり社会から与えられたもの)に引きずられる。独自の世界の見方が自分に備わってい ると感じない。

基本的にはシャッターを押すのは光が美しいと感じた瞬間で、特に写っているものにこだわりがあるわけではない。だから結果的に花鳥風月もあるし、抒情的なケースもある。ただ、世界にあふれる光を写して、写真として美しいものが撮れればと願っているのだ

写真は「窓か鏡か」という議論があり、MOMAの写真部長だったシャコフスキーは、「窓と鏡」という論文を書き、そのタイトルで写真展を開いた。つまり写真 は自分を見つめる鏡である場合と、世界をの覗いて何かを見つける窓であるというのだ。私の場合にはどちらもできず、部屋の中で落書きを書いているような気もしてくる。

とりあえず昨年末のネガをプリントしてもう 少し、写真で何がしたいのか考える必要がありそうだ。もしかすると過去に撮ったネガを見直して、あるかもしれない宝を探すという方法もあるかもしれない。 大抵36コマ撮って数枚しか六切りのワークプリントを作っていない。ベタで写真が分かるほどのプロではないので、可能性のあるものを見つけてワークプリン トを作るというlことも必要かもしれない。でも整理が悪くで積んだままなので、どこから手をつけて良いかも分からない。とりあえず今は忙しすぎるのかもしれない。

 

写真のテーマとモチーフ

先日、貸暗室に行った際にニコンサロンに応募する人がまとめをするのを見ていて、しばらく話したのだが、作品のまとめをするという意味ですごく突き詰めて考えていて、話していても何をしているかがはっきり伝わってくる。つまり写真を使って何かを表現する意志が明確ということなのだ。

表現を広辞苑で調べると、
ひょう-げん【表現】
心的状態・過程または性格・志向・意味など総じて精神的・主体的なものを、外面的・感性的形象として表すこと。また、この客観的・感性的形象そのもの、すなわち表情・身振り・動作・言語・手跡・作品など。表出。 【広辞苑】

つまり、自分の内面にあるものを何か、この場合は写真を使って、外面に表すことということだが、果たして自分はそれをしているか疑問になる。

プリントしてピンとこないのは、表現になっていないからなのだが、街を撮るというテーマははっきりしていると思うので、時々言われるモチーフは何かがはっきりしていないのだと最近思うようになった。

Wikipediaによれば

モチーフ(モティーフ)
motif – 動機、理由、主題という意味のフランス語の単語。
絵画・彫刻などの芸術作品で、表現の動機・きっかけとなった、中心的な思想・思い。 ということのようだが、中心的思想に基づいて写真を撮っているような気がしない。なので、ネガを見てもばらばらと雑多な情景の集合になっているような気がする。

やはり、いつも聞かれる「なぜ写真を撮るのか」という問いかけに答えないと、自分でさえピンとこないような写真になるということのようだ。

そもそも、作品を作ろうという大それた野望もなく写真を撮っているのだから、あまり考えずにのんびりとプリントすれば良いのだが、周りにはもっと突き詰めて作品を作ろうという人がたくさんいるので、影響されてしまう。

福岡伸一さんによれば、プロと言われる人は、1万時間をそのことにかけて、やっとプロになるのだそうだ。毎日3時間で1年で1千時間、それを10年でやっと1万時間。暗室作業をならって、まだ2年半ほどだし、1日3時間などまったくできていないので、初学者の初学者だから当然と言えば当然なのだが、もう少し考えて写真を撮ることも必要かもしれない。目の前の光に単純に反応しているだけで、モチーフについては何も考えていないのが現状だ。

ふるさと納税でライカマウントレンズ

長野県中野市が始めたのは、ふるさと納税の礼品にコシナのレンズを使うというもの。ふるさと納税は周りでも何人かがやっていて知ってはいたが、農産物やお肉をもらってもとか、なんとかなく面倒という感じがして全く興味がなかったのだが、コシナのフォクトレンダーと聞いては関心が湧く。

それで中野市のサイトに行ってみるとニコン、キヤノン、ソニーのマントのレンズもありフォクトレンダーも何種類かある。それで他のサイトに行って納税可能額を調べてみたらレンズがもらえるだけは十分あることが分かったので早速申し込んだ。この間わずか10分以内。

申し込んだのはフォクトレンダーの50mm1.1fのレンズ。このところ35mmより50mmをよく使うのでちょうど良かった。2週間程度で届くというので楽しみだ。それで支払った額は来年の税金から差し引かれるので買った訳ではない。東京から中野市に支払先を変えただけだからむしろ良いことをした気がして気持ち良い。

「日本語が亡びるとき」

日本という国がなくなっても、たとえば日本沈没というようなことが起こったり他の国に併合されても、日本語をしゃべり、「源氏物語」や「吾輩は猫で ある」を読んで日本の歴史と文化が残ればそれでいいかとも思っていたが、その思いはこの本を読んで崩れ去った。それは逆だった。国や社会が無くなれば言葉 もなくなる。言葉がなくなれば文化も消える。

日本語に限らずすべての国語は歴史と偶然の産物で非常に脆いものだということが分かったのだ。 日本列島がもっと中国本土に近かったら漢文が中心で漢文を中心に文化が発展し、漢字を日本固有の言葉に組み込んで日本語を生み出すことはなかったと著者は 書いているが確かにそうだろう。中国の影響下にあって漢文を使わなければいけないとしたら誰も日本語に注意を払わない。現に中国の強い影響下にあった韓国 とベトナムは科挙の制度を取り入れていた。科挙とは漢文を習得することに最大のエネルギーを使うことだ。すべてが漢文を中心に組み立てられる。

中国の影響を受けずうまく漢文を日本語に取り込んで国語を作り、それを最大限に利用できたことと、日本に文字を読んで楽しむ国民が多数いたことで日本の文学や文化は世界に誇れる水準になってきた。

百科事典の「ブリタニカ」の日本文学の項は、1万6千文字を使って日本文学が世界でもっとも主要な文学のひとつであることが説明されているという。確かにフランス語がまだ存在しなかった頃に「源氏物語」はすでに書かれていたことを昔習って日本人として誇りにしてきたものだ。しかし、今、誰が「源氏物語」を原文で楽しむことができるのだろうか。100年ほどしかたっていない漱石でさえ読むのが難しいのが正直なところである。

その誇るべき日本文学でさえ、優れた翻訳が作られ、英語になって初めて世界的に知られるようになったのである。川端康成や村上春樹が日本語で世界で読まれるはずはない。世界に受け入れられるのは英語でなければいけないのである。

19 世紀から20世紀にかけて起こった歴史の偶然が、世界の公用語をフランス語から英語に変え、そしてまたインターネットの登場によってこの流れは加速されて いる。日本人の作家が日本語で書くのは日本語でしかかけないからで、仮に英語も同等に使えるとしたら日本語で書くだろうか。

将来、英語でも書ける日本人の作家が生まれても、日本語で書くだろうか。仮に英語で書く日本人作家が英語で書く作品は日本文学だろうか。カズオ・イシグロは日本人の父母を持つが日本文学の作家ではない。

世界で共有されるべき文化活動や知識の集積は英語で行われるのが当たり前になってきている。その中で日本語で書かれるものは世界の文化の周辺のとるに足らな いものになってゆくのだろうか。すくなくとも、評価や金銭的な成功につながらないものについては、有能な人は英語で書くことが可能なら、現地の言葉で書く ことにエネルギー使わないことは明白でだから、英語でない文化や文学はだんだん活力を失っていくのだろう。

より効果的な英語教育の是非は 叫ばれていることは事実だが、それはどの程度か。シンガポールのように日本語を捨てて英語だけを教育すれば英語の能力は高まるだろう。どこまでやるべき か。つまり日本語を捨てるべきかどうか。世界の経済的文化的な融合は、日本語の将来を明白に示してるのは著者の意見だ。本当にそう思う。問題はそれがいつ かだろう。100年先か、200年先か。私たちもすでに100年前の日本語をすでに読めない。100年後の英語と融合した日本語も私たちは読めないだろ う。

この本を読んで引用されていた漱石の「三四郎」の一節が興味深かった。日露戦争が終わって3年後の1908年に連載されたその小説 で、漱石はロシアという大国に勝った日本に異常な自信をもった傲慢な日本人は亡びると予想している。日露戦争に勝って浮かれている日本人に警鐘にならした のだ。小説が書かれた37年後に日本は無条件降伏することになった。この小説のこの部分のことをすっかり忘れていたが、日本人は100年たった今も高度経 済成長を経てアジアの強国意識をさらに強めて今にも戦争しそうな勢いだが、漱石でなくても「亡びるね」と言いたくなる感じだ。

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写真はドレスデン

Jリーグの優勝賞金が10億円に

ラグビー・トップリーグの試合が初めて日産スタジアムで開かれるというので久しぶりに横浜へ。観客動員は寂しかったが、試合は強豪 東芝ブレイブルーパーズを相手にキヤノンイーグルスが健闘。一時はリードを奪ったが逆転負け。試合としては面白かったし、初めてのファンが多いということで解説付きで良かった。こういうことの積み重ねでラグビーのファンが増えてくれると良いのだが。

話題はラグビーではなく、サッカー。Jリーグは、現在の2ステージ制から1シーズンに変更されることが発表されたが、今度は優勝賞金の増額だ。1シーズンが良いか2ステージ制が良いかは意見が分かれると思われるが、優勝賞金の増額には誰も異論がないだろう。

どちらの施策も先日発表されたパフォームとの2000億円を超える放送権の契約に関係があるのだろうが、プロリーグが面白くならなければ代表も強くならないから、もっとJリーグの人気をあげてもらいたいものだ。

久しぶりの夜の横浜は9月ということもありさわやかな感じがして、試合を見ていても快適だった。寒くなる前にもう少し見てみたいものだと思った。

「20世紀の現代建築を検証する」

「20世紀の現代建築を検証する」は建築家と建築の専門家が20世紀の建築の歴史と流れを語る内容だが、素人建築ファンには知らないことが多すぎてちょっとレベルが高すぎ。それでも紹介される建築はカラー写真で、私でも知っている有名建築が出てくるのでそれなりに楽しめる。

面白かったのは、流行やそれに対するアンチテーゼや個人の趣味など様々要因が影響することや、時々出てくる有名建築家のエピソードなど面白い。建築のような巨大プロジェクトと言えども建築家の個人の個性や盗作的な創作で出来てしまうことが改めて良く分かった気がした。

とりあえずこの本のおかげで20世紀なら有名な建築がどのような流行や反流行で作られたかが分かる、網羅的かどうかは素人なので分からないが、良い本だ。

上の写真のロンドンの「ザ・シャード」は昨年の完成なので登場しないが、細長いコーンのような形をしてガラスの面が8面あるので8角錐ということだが、このような建築はどの流れに入るのか興味がある。

[amazonjs asin=”4871406822″ locale=”JP” title=”二〇世紀の現代建築を検証する 磯崎新 鈴木博之”]

 

TOKYO 2020 ID|東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会

東京2020の提供する公式メールマガジン・IDサービスです。

情報源: TOKYO 2020 ID|東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会

リオのオリンピックが終わって、これからパラリンピック。パラリンピックが18日に終わると次はいよいよ、東京。そんなタイミングで東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会
がメールマガジンを始めた。登録するとこれから色々な情報が送られてくるのだろう。ともかく、サッカー、ラグビー、陸上、競泳あたりは見たいからチケット情報が楽しみだ。でも抽選になるのだから、まだわからないが申し揉まなければ当たらない。

写真の時制

しばらくぶりの友人と話したのだが、話はいつも通り写真の話に。話の中で気になったのは、写真は現実を写すかということ。もちろん写真は被写体がないと撮れないから写っているものは実在したことは事実であるが、では写真は現実か。いろいろな答えがあると思うが、現実に見えることもあれば、現実に見えないこともある。杉本博司の「ジオラマ」のシリーズは、ニューヨーク自然史博物館の展示を撮ったものだが、非現実を写真にすると一番現実らしく見えるということになっている。あるいは叙情的なソフトフォーカスやどこにもピントが合っていないような写真は、(これはあまりにもたくさんの事例と作者がいるが)現実を撮っていても、現実に見えないという努力だろう。

この現実なのかどうかから考えたのは写真の時制のこと。ロラン・バルトは写真の本質を「それは・かつて・あった」というように、過去に属するものとして定義した。シャッターを押して露光した瞬間は常に過去に属しているのは事実だ。でも、その露光された写真は過去に属しているのか。これは現実かどうかの議論のように異論があるかもしれない。 バルトが書いて、世の中で認められていることに議論できる能力はないが、過去を撮ったけれど未来を表すということは無いのか・バルトのポイントはここについては語ってはいない。瞬間を永遠に閉じ込めて、いつでも見られること。彼の亡くなった母の少女時代をいつでも見られることから過去に属していることを言っているが、例は思いつかないが普遍的な事象や瞬間を撮った物で常に未来を表している表現があり得る気がする。なら見せてみろと言われそうだが、具象より抽象かもしれない。

そこから帰りの電車の中で考えたのは、最近のデジカメに搭載されている機能で、アートフィルターというやつだ。ソフトフォーカスだったりトイカメラだったり、森山大道風のアレボケだったりを自動的に作ってくれる。これに未来フィルターを組み込むのだ。画像に写っているものの未来を演算する機能は難しくはない。最新のPhotoshop CS6に入っている機能では、すでにこれの上を行く。GPSとコンパスが組み込まれればより正確な演算ができるし、人物の1年後や10年後の画像を計算する場合には単純にPhotoshopの機能だ。森山大道は「写真は時間と光の化石だ」といったが、これからは過去だけに向いていたベクトルが未来にも向くのだろうか。

トーマス・ルフ展

9月の最初の週末は予定がなかったので、どこかへ行こうかと考えたが土曜日にぐずぐずしてチャンスを逃した。それで、美術館と考えたが、東京都写真美術館は9月3日再オープンで、最初の展示は杉本博司だと知っていたが、きっと混んでいると読んで、国立近代美術館の「トーマス・ルフ展」へ。

トーマス・ルフは写真を取らない写真家だと思っていたが初期に撮ってるいたようだ。初期の肖像写真や建物の写真はいかにもベッヒャーの弟子という写真だ。まさにタイポロジーの見本のような作品だ。建物は曇りの日の早朝に撮っていたそうだが、これもベッヒャーの撮り方と同じだ。ちょっと違っているのは全てが正面から撮ったものでないということ。建物を斜めに撮っているものがあり、これがベッヒャーとは違っている。

有名なJPEGを大型の作品で見られたのでこれが収穫。あの作品はやはり大きな引き延しで見ないと意味がないことがよく分かった。

面白かったのはネガを作品にしているもの。ネガになると写真だということはより明確だが、写っているものはあまり明確でなくなる。これが、写真を象徴させるために考えた作品かどうか意味は分からない。

今回の新作を含むシリーズは報道写真のプリントを表と裏をスキャンして重ねた写真。今回、読売とかから昔の記録写真を借りて作ったそうだ。この作品は今はデジタルになってプリントもないし、デジタルだから撮った人が記録にメモを裏に書いておくということもない。

眺めること、見ること、見えること

見ていても何も見ていないというのが普通だ、私の場合には。目は開いていても普通は何も見ないで歩いていることが多い。それが証拠に、知り合いから声をかけられたり、一緒に歩いている人に誰それとすれ違ったと言われて、何も覚えていないことが良くある。つまり、ただ眺めているが、何かを見ている訳ではないようだ。簡単に言うと、ボーっとしているということだろう。単に眺めているだけでは、何かを見ている訳ではない。

意識して見ることで初めて見ることができるようだ。でも本当に何かが見えるのは、もっと意識して見ないと何も見えてはいない。見るということは目の機能ではなく、脳の機能であることは知られている。たとえば網膜には視神経が集中して脳につながるための盲点があり、そこは何も見えてはいないが、脳全体で視覚を統合・補正して盲点が無いように見させているそうだ。あるいは、網膜の残像を脳で再構成して動作しているように見えるということもそうだ。きっともっとたくさんの事例があるのだろうが良くは知らない。

写真でいつもピントが気になるが、写真でピントが固定してしまうとピントの位置が大きな意味を持つ。人間の目ではピントはどこにでもすぐに合うようになっているし、脳で再構成しているから違和感は無い。写真になるとパンフォーカスで全体にピントが合っているのも、被写界深度が浅くて1点だけにピントが合っているのも、どちらも不自然というか不思議に見える。もちろん写真の表現なので、人間の見えるように撮れないし撮れていなくても問題はない。

日本ではボケが尊ばれて大口径のレンズを開放で使って浅い被写界深度の写真が好まれる。でも開放でレンズを使うと、どうしてもピントは甘く柔らかになり叙情的な雰囲気になるが、これも良いということなのだろう。最近まで柔らかい写りのボケの多い写真を量産していたが、このところはピントを深めにしようと努力している。でも夕方や夜はどうしても開放に近くなってしまい、柔らかくなってしまう。そんな場合は撮るなということだが、酒を飲んでの帰りはどうしても写真が撮りたくなる。それで、どうでも良いぼんやりとした写真が多くなると言い訳をしておこう。

なので写真で何かを見ようとしているわけではなく、レンズを通してボーっと眺めているということなのだ。眺めて、それが美しいと思えれば何が写っていても関係ないと思っている。一時、何も明確な形のあるものを避けてできるだけ抽象画に見えるようなものばかり撮っていたが、周りの人から意味が分からないと言われたが、そんなぼんやりとした情景が私の世界の認識なのだろう。だから、これからも何が写っているか分からないような写真を作っていきたい。