出雲大社に行って来た

数十年前に行ったことがあったのだが、その時の記憶は完全に失われており、わずかに覚えていたのは日御碕の白い灯台だけだ。

出雲大社の記憶は完全になくなっており、初めて来たというような印象だった。ただ、あの太いしめ縄が記憶に残っているような気もしたが、多分それも後からどこかで見た記憶と組み合わせているだけだと思う。それではなぜ日御碕灯台を覚えているかと言うと、あてもない旅行で行って、あてもなく車を走らせていると真っ白な灯台に出会って、その時の記憶がインパクトとして残ったのだと思う。

当時はインターネットやスマホも無いし、観光ガイドを見ながら旅行をしたということでも無い。だから灯台を探して行ったのでも無い。

日御碕灯台だけ覚えているというような記憶は不思議なものだ。大抵は覚えていることと忘れたことをついての明確な理由は思い当たらない。その時の旅行も、いくつかの断片の時間がなんとなくあるだけで、ほとんどの事は忘れてしまっている。当然のことながら、その旅行に行ったことを覚えている。誰と行ったかも覚えている。ルートも覚えている。しかし、それぞれの感じた事とか覚えているのは全て断片、しかもそれもつまらないことだ。

有名な観光地に立ち寄ったことは、詳細な感覚としての記憶ではない。その時の状況も見た景色も明確に覚えているものが少ない。覚えていたとしても後からの捏造かもしれない。

断片は、旅行の時に食べた特定の店の焼き鳥の味とか途中で電話をしたこととかつまらないことだ。

どこで読んだのか覚えていないが、ピーク・エンドの法則というのがあり1つの体験についてはその時のピークの感覚と最後の感覚だけが記憶に残り、あとはすべて忘れ去られるということだ。

どんなに長い旅行でも、どんなに長い体験でも基本的に同じで、ピークとエンド以外は忘れられるのだ。

それではピークとエンド以外はいらないと言うことになってしまうが、それでは体験にならない。どんなに忘れられようともその時はその体験を楽しんでいるわけだから、それは重要なことのように思える。人生も1つの長い体験だからピークとエンド以外はいらないと言えないし、言いたくもない。その時その時の感じたことや体験することが、いかに記憶に残らなくても、体験することが大事だ。歳をとると、たくさんのことを忘れていくが、でも、すべて覚えていたらとても不便なことがたくさんあるのだと思う。

だから、本当に大事なこと以外はどんなに楽しくても忘れると言うことも必要なのだろう。

出雲にはそれなりに観光客がいて、GoToが始まったからと言うこともあるのだろう。東京や大阪以外は感染者数も落ち着いていることもあり、観光客はそれなりに多かった。海外からの観光客がいないと言う状況で、国内からの観光客だけで観光業は成り立っているのだから、本当はもっと人手が多い方が望ましいのかもしれない。11月は紅葉の季節で観光のシーズンだから、感染症に十分な対策をした上で、どこかにコロナウィルス疲れを癒すために出かけるのも良いことだろう。