眺めること、見ること、見えること

見ていても何も見ていないというのが普通だ、私の場合には。目は開いていても普通は何も見ないで歩いていることが多い。それが証拠に、知り合いから声をかけられたり、一緒に歩いている人に誰それとすれ違ったと言われて、何も覚えていないことが良くある。つまり、ただ眺めているが、何かを見ている訳ではないようだ。簡単に言うと、ボーっとしているということだろう。単に眺めているだけでは、何かを見ている訳ではない。

意識して見ることで初めて見ることができるようだ。でも本当に何かが見えるのは、もっと意識して見ないと何も見えてはいない。見るということは目の機能ではなく、脳の機能であることは知られている。たとえば網膜には視神経が集中して脳につながるための盲点があり、そこは何も見えてはいないが、脳全体で視覚を統合・補正して盲点が無いように見させているそうだ。あるいは、網膜の残像を脳で再構成して動作しているように見えるということもそうだ。きっともっとたくさんの事例があるのだろうが良くは知らない。

写真でいつもピントが気になるが、写真でピントが固定してしまうとピントの位置が大きな意味を持つ。人間の目ではピントはどこにでもすぐに合うようになっているし、脳で再構成しているから違和感は無い。写真になるとパンフォーカスで全体にピントが合っているのも、被写界深度が浅くて1点だけにピントが合っているのも、どちらも不自然というか不思議に見える。もちろん写真の表現なので、人間の見えるように撮れないし撮れていなくても問題はない。

日本ではボケが尊ばれて大口径のレンズを開放で使って浅い被写界深度の写真が好まれる。でも開放でレンズを使うと、どうしてもピントは甘く柔らかになり叙情的な雰囲気になるが、これも良いということなのだろう。最近まで柔らかい写りのボケの多い写真を量産していたが、このところはピントを深めにしようと努力している。でも夕方や夜はどうしても開放に近くなってしまい、柔らかくなってしまう。

なので写真で何かを見ようとしているわけではなく、レンズを通してボーっと眺めているということなのだ。眺めて、それが美しいと思えれば何が写っていても関係ないと思っている。一時、何も明確な形のあるものを避けてできるだけ抽象画に見えるようなものばかり撮っていたが、周りの人から意味が分からないと言われて凹んだが、そんなぼんやりとして情景が私の世界の認識なのだろう。

そんな世界を写真にしたら、ちょっと良いと言われて嬉しくなった。