死の日常化「生きているものはいないのか」

前田司郎の「生きているものはいないのか」の舞台を見てきた。上演したのは、888企劃という劇団。

その日は、新型コロナウイルス感染症の新規感染者数が、日本全国で2,865人で記録を更新した日だった。アメリカでも、205,460人の新規感染者が記録されている。日本で亡くなった人も14人増えて2,109人に達した。東京でも新規感染者数は561人と、2日続けて500人を超えていたが、新宿の町は人が溢れ、平穏だった。いつも変わらない、コロナウイルスとは関係ないような街の景色。

「生きているものはいないのか」は、理由もわからず次々と人が死んでいく、一般的には「不条理劇」と呼ばれる舞台だが、2020年のコロナ禍の年に見ると別の意味を持つ。舞台の上で、次々としかも突然、意味も分からず人が死に、その役者、つまり死体は舞台に放置されていく。通常の劇のように溶暗して、役者=死体が舞台から消えることはない。舞台の上が、劇が進むにつれ死体で溢れてゆく。死が目の前に積み上げられてゆくのだ。

新型コロナウィルスのために、世界ではすでに140万人が亡くなっている。想像もできない数だ。人類は太古からずっと感染症と戦ってきている。しかし、医学や薬学の発達により多くの感染症は死に至る病ではないと私は思っていた。それが、21世紀の今日、感染症を止めることも治すこともできない。世界中の人が不安な毎日を過ごしている。この日常は、まるで「生きているものはいないのか」の舞台の中のような状況だ。現実の私たちの生活が、まるでこの舞台のようだ。

他の舞台は見ていないので分からないが、888企劃の今回の舞台は、18人の役者それぞれが、意味もなく理由もわからず死んでいくと言う状況に直面した人間を個性豊かに演じている。また、多くの死に直面した人間がどのように死を捉えるかと言うことを私たちに伝えてくれる。登場人物の中では、ただ1人、自らの死を意識してきた病気の少女だけが迫り来る死を意識してきたのだろうが、それ以外にとって死は遠い将来のこととして、リアルには捉えてはいなかった。それは見ている私たちの死との関わりと同じだ。それが、目の前で多くの人が死んでいく世界で死に慣れてゆく様が痛々しい。

死は、いつかは誰にも訪れるものでそれが頭ではわかっているが、現実のこととして捉えていないと言うことを思い知らされる。少女の言葉に出てくる自分のいない、死んだ後の世界と世界が滅びた後に残された自分、どちらも同じだと言う言葉が胸に刺さる。

コロナ禍の今年、この舞台を見ることができて、もう一度死について考えるという良い機会になった。