北京 西大柵欄 

2007年から2009年まで2年9ヶ月ほど北京で働いた。北京オリンピックを迎える北京は活気があった。2010年に中国はGDPで日本を抜いて世界2位になったが、その直前ということになる。

その期間に、北京から旅行もしたが、普段の週末は北京の中をカメラを持って歩き回っていた。秘書のユキさんに、北京人の彼女より北京を歩き回っていると言われていた。

そのころに一番良く行った場所は、前門の少し南の大柵欄のあたりだ。夜にも食事に行ったが、一番多いのは、週末の午前中。起きてコーヒーを飲んですぐにタクシーで行って、朝ご飯を食べて昼ごろまで大柵欄とその周辺を歩き、午後に別の街に移動するというのが日課だった。

前門や大柵欄は観光地として賑やかな街だ。多くの国内外の観光客が訪れる。特に、前門はオリンピック前に古い商店街を全て撤去して、人工的なテーマパークのような街に作り変えられていた。だから、それ以前の前門と変わってしまったので、全く興味を持たなかった。

その側に、大柵欄と西大柵欄がある。大柵欄は有名店が並ぶ銀座のような通りだが、西大柵欄は庶民的な通りで好きだった。

基本的には、西大柵欄が街歩きのベースになっていた。西大柵欄には、庶民の街で観光客相手の店やスターバックはなかったが、外国人向けの安宿があって、そこの一階がコーヒーをだすカフェになっていた。なぜか、SAKURAという名前で、欧米人に受けると思われる名前をつけていたのかもしれない。

大柵欄は昔の花街で夜になると通りを柵で閉じたのでこの名前があると観光案内か何かで読んだ。紫禁城のすぐ前なので、皇帝もお忍びで出かけていたというが、たぶん本当なのだろう。

琉璃廠

Googleフォトの容量無制限の終了間際にたくさんの写真を、Googleフォトに保存した。中国でとった写真が大量にあり、保存に何時間もかかった。記録として、思い出しながら、紹介してみようと思う。以前のブログで紹介した投稿もまだ見られるので、それもここに統合しようかと考えている。

北京に滞在したのは2007年の初めから2009年の夏ごろまでだった。北京オリンピックがあり、中国には活気が溢れていた。この頃、中国は、GDPでは日本の下で3位の頃だった。中国のGDPが日本のそれを向いて2位になったのは2011年だから、それに向けて頑張っていたと言うことか。

日本と中国の関係は、それ以前から問題があったが、比較的雪解けの雰囲気はあった。北京の繁華街の王府井(ワンフーチン)のメインストリートが、日中国交回復35周年の華やかな展示が行われ、多くの人が集まった。当時は、戦略的互恵関係などと言われたりしていた。今思えば、それから12年いろんなことが起きている。そして、日本の停滞をよそに、世界の富裕層上位10%に入る人の数で、米国を抜き、首位に立っているという記事を最近読んだ。

過去の写真をみているといろいろなことを思い出す。北京の思い出の最初は琉璃廠(リウリーチャン)だ。この街は天安門の南西の方にあり、書画や文房具、印鑑屋などがあり古いきれいな町並みで観光地となっている。琉璃とはガラスのことで故宮の瓦に使われている黄色の瓦などを焼く工場があったので琉璃廠というらしい。

週末などによく散歩に行った。観光地となっているが、良い雰囲気だったからだ。地下鉄の和平門からあるいて10分ほど。街は東西の通りになっていて、垂直に南北に貫く大通りの南新華街によって、琉璃廠東街と琉璃廠西街に分けられている。

東街にも画廊はあるがどちらかというと雑貨やアンティーク風のものなどのお土産物屋が多い。この写真は東街。

西街は書画や文房具など多く売られており、書の教科書などがたくさん売られている。私が名前を見たことのあるような有名な書道家やたくさんの書道家の作品がお手本として売られているようだ。ビデオCDで、書や絵の書き方を説明するものが売られていて、中国語が出来るのならほしいと思った。

立派な何万元もする印鑑も作れるが、路上で作ってくれる職人もいる。

ピンクフロイドの発電所

毎日寒い日が続くが、太陽が出ているときは、着込んで屋上で読書をしている。そうすると、少し離れた空を飛行機が飛んでゆく。羽田空港に着陸する飛行機が、南風のときには海上からではなく、北から空港に降下してゆくのだ。これは2020年3月からの景色だ。一年たったから、そう珍しい景色でもなくなった。しかし、以前は東京の上空の低いところを飛行機が飛ぶことはなかった。それをみながら、本を読んでいて、ロンドンを思い出した。

ロンドンは、市内から西の方向にヒースロー空港があり、多くの飛行機がロンドンの上空を飛んでいる。だから、飛行機雲の入った写真がたくさん撮れる。

東京からロンドンに向かう際にも、朝ごはんを食べて窓から外を見ると、まず海上にたくさん並ぶ風力発電の大きな羽をみる。あまりにたくさんあるので、船がぶつからないか心配になる。陸上上空をしばらく飛んで、高度を下げ始めると、大きく蛇行するテムズ川が見え始め、ロンドン上空に達する。

ロンドンに通っていたときに、何度目かにテムズ川のそばに、大きな白い煙突が見えた。すぐに、それがピンクフロイドの発電所だと気がついた。

ピンクフロイドの発電所というタイトルは不親切なものだが、意味はピンクフロイドのアルバムのジャケットの写真に出てくる発電所という意味だ。イギリスのバンドと言ってもたくさんありすぎて、どれがいいとは言えないが、ピンクフロイドは5つ選べば必ず入るバンドだ。3つだと自信はないが5つだと必ずだ。どれが好きかと言われても時期によって違うから一概には言えない。ロンドンオリンピック以降は、The Whoが気になっている。

そのピンクフロイドだが、映画のサウンドトラックの「モア」や「原子心母」あたりから意識して聞いていた。よく聞いたのは「原子心母 – Atom Heart Mother 」、「おせっかい – Meddle 」、「狂気 – The Dark Side of the Moon 」、「炎〜あなたがここにいてほしい – Wish You Were Here 」、「アニマルズ – Animals 」あたりだ。中では「Animals」は良く聞いたわけではないが、そのアルバムジャケットが気になっていた。その建物が何かも知らず、実在も知らなかった。それが実在の火力発電所だと知ったのはかなり時間がたってからだと思う。この発電所に豚の形をした風船が浮かんでいるが、豚のキャラクターはピンクフロイドのこの頃の代名詞でもあった。彼らが豚ということではなく、現代文明への風刺として彼が豚と言ったという意味だが。

アルバムのデザインをしたのはヒプノシスで、ピンクフロイドの他の多くのアルバムも彼らの手によるものだ。ユーミンの「昨晩お会いしましょう」も手掛けている。

その火力発電所を初めて見たのは、飛行機の上からだった。その後、何度も撮影に通った。名前は、バタシー発電所で、1983年まではロンドンに電力を供給していた。写真では左の下の方。4本の白い煙突が見える。最初に気がついたのは、この煙突だった。それで、何度目かの時に、カメラを準備して待って、この写真を撮った。

上空を飛ぶ飛行機を見て、ロンドンを思い出した。

「フェルメールと風俗画の巨匠たち」展@ルーヴル美術館、2017

フェルメールの絵を積極的に見始めたのは、1994年にニューヨークから帰国してからだ。それまでに、ニューヨークとワシントンで、そこにある作品は全て見ていた。帰国後、フェルメールの来日展が開かれると、必ず行っていていた。

その後、実際に各国美術館に足を運び、最後の「音楽の稽古」をバッキンガム宮殿で見たのは、2014年だった。「音楽の稽古」は、女王の休暇中の夏にしか、美術館が公開されないので、その時期にロンドンに行かないと見られないから時間がかかったのだ。それで、全作品の実物を見たことになる。残念なのは、ボストンのしかし、所蔵されている「合奏」は見ていない。1990年にイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館から盗まれたからだ。1989年にボストンに行ったが、空港からケープコッド方面に向かって、市内に足を運ばなかったことが悔やまれる。

実物は、全作品を見ているが、エディンバラのスコットランド国立美術館にある「マリアとマルタの家のキリスト」と、ドイツ、ブラウンシュヴァイクのヘルツォーク・アントン・ウルリッヒ美術館にある「ワイングラスを持つ娘」は来日展で東京で見ているから、この2都市はいつか訪問しようと思っている。

すべての作品を見ていたので、フェルメールの旅行は終了にして、カラヴァッジョの作品を見る旅を始めようと思っていた2017年にフェルメールの絵が12枚も集まる、パリのルーヴル美術館の『フェルメールと風俗画の巨匠たち』展のことを知った。35作品とか37作品といわれている彼の作品が12も集まるのは、多分今世紀中はないと思って出掛けた。忙しかったので、3泊5日の旅行で、事前に展覧会の予約を2日間分、日本から予約して出掛けた。すごい人気で、世界中から人が集まっていると聞いていたからだ。

 12作品と言っても、全てすでに見ているので感激はないのだが、何枚もの絵が並んでいるのは気持ちが良い。それに、12作品に初期の習作の4作品とワシントンの板に描かれた2作品が含まれていないのだから、満足度は高い。特に、普段は、パリとフランクフルトに別れて展示されている「天文学者」と「地理学者」が並んでいるのを見るのは、こんな機会でもないとありえない。

ちなみに、作品数が35作品とか37作品と書いたが、個人的には、ワシントンの板に描かれた2作品は、フェルメールではないと思っているので、35作品派だ。だから、習作と疑問の作品を除いた、主要作品31点の12だから、かなりの数だ。

ルーヴル美術館に、2回行って、それ以外の時間は、セーヌ川の堤防をあてもなく歩いていただけだった。

ノッティング・ヒル、ロンドン

2013年から2016年にかけてロンドンに長い間滞在した。長い時は2ヶ月近く滞在し、短い時でも1週間。平日は仕事があるから、夜に食事に出かける程度だが、週末はロンドンのあちらこちらを歩いた。

どちらかと言えばロンドンの東側のショアディック(Shoreditch)の辺りの写真を撮って歩いていた。でも、西のノッティング・ヒル(Notting Hill)に行くこともあった。ショアディックがニューヨークで言えば、イーストビレッジとすれば、西のノッティング・ヒルは、アッパーウエストという感じだろうか。

これは映画の「ノッティングヒルの恋人」の舞台だから行ったと言うこともあるが、のんびりと食事をしたり、ビールを飲んだりするような場所がいくつもあって楽しめた。東側の猥雑さは緊張感を強いるが、西のノッティングヒルはリラックスできたのだ。

地下鉄のNotting Hill Gate駅で降りて少し歩くと、メインのPortobello Rdに出る。日本語では、ポートベロと書いているのを見かけるが、アメリカで食べていたポータベロ・マッシュルームの発音と同じように、個人的にはポータベロと呼んでいた。どちらが、より現地語の英語に近いのか知らない。ポータベロ・マッシュルームは日本ではあまり食べないが、ニューヨークにいた時は好物だった。それとは直接関係ないが、Portobello Rdに親近感を抱いていた。

上の写真は、映画の中でヒュー・グラントが演じる主人公が住んでいた場所。2階に少しテラスがあるのですぐにわかる。この家の赤いドアは映画の中でも青く塗られていたが、そのドア自体は映画の後でオークションで販売されてしまったそうだ。

主人公が経営していた旅の本だけ集めた書店はフィクションだが、撮影に使えられた店舗は現存した。写真を撮った2013年には靴屋だ。それから、多分映画から発想された、ヒュー・グラントが経営する旅の絵本を集めた書店とおなじような書店は、この場所から少し離れた脇の路地にあった。映画では全く使われていないし、多分関係ないと思うが、旅行関係の本をたくさん集めて販売していた。

このポータベロー通りは、週末にはアンティークと言う名前のガラクタがたくさん売られる屋台が出る。Notting Hill Gate駅から遠いほうに行くと、週末には、映画に出てくるような野菜や果物を販売するマーケットの通りとなっている。この通りに行くのは、夜に食事に行く以外は週末が多かったので生鮮食料品のマーケットの写真をたくさん撮っている。

Notting Hill Gate駅からポータベロー通りを歩くと、通りのはずれは、Ladbroke Grove Stationがあって、そこの広場でも骨董市が開かれていた。

がらくたに混じって、古いカメラがたくさん売られていて、覗いたりしていたが買うことがなかった。古いカメラは古すぎて撮影には使えなさそうだし、少し新しいものはプラスチックでできたカメラで、興味をひかなかったからだ。いちどだけ買い物をしたのは、古いラグビーの写真で、1枚数ポンドで1000円もしないから買った。

2013年から2016年と書いたが、1番回数が多かったのは2013年で、この時にたくさんフィルムで写真を撮っている。その後は、忙しかったのと滞在期間が短かったのであまり写真は撮っていない。

撮ったフィルムは現像は終わっているが、忙しくてきちんとプリントができていない。ロンドン以外にも海外で写真を撮りにいったフィルムがたくさんあり、プリントをしなければいけないが、始めるならまずロンドンの写真からだ。

プリントで思い出したが、ある出張の際に、足りなくなったフィルムを買いに行って、フォコマート2を購入して、ホテルに運んでもらった。運ばれてきたケースを見たら、あまりにもサイズが大きくびっくりした。それが3ケースもあり、自分1人の分としては日本に持って帰って来れなかったので、たまたま同行していた同僚にお願いをして彼の分として運んでもらった。

この頃の出張は、すべてビジネスクラスだったので、あの大きなケースを運べた。2014年以降の出張は、別の組織に移ってからのものだったのでエコノミークラスだとあの荷物を運んでもらえなかったと思う。しかも当時は、ビジネスクラスには成田からのハイヤーがついていたから、自宅までその巨大な箱を3個も運べたのだ。

そのフォコマート2は、自宅のガレージ暗室で使い始めた、しかし、その後忙しくあまりプリントができていない。そのプリントができてない理由の1つは忙しさもあるが、自宅で現像液を使ったりすることが環境問題への影響を考えると控えなければいけないと思い出したからだ。2013年の9月に東京オリンピックが決まり、東京湾で各種の競技が行われると言うことを考えると、自宅から廃液を海には流したくないと言うような気持ちになった。ずっと行っていた自宅フィルム現像を止めたのも同じような理由だった。

ノッティング・ヒルの写真を見ていて、ロンドンに最後に行ったのはいつかと考えると、多分2016年の11月ごろだと思う。新型コロナウィルスが収束したら、また旅行に行きたいが、行き先の候補はロンドンも上位に入る。何度か行ったPortobello Rdのパブでエールを飲んでみたいものだ。

ニューヨーク1990

ニューヨークに住んでいたのは1990年の6月から1994年12月年末まで。その前の年からワシントンDCの郊外の大学に行っていて、アメリカには1年いたから、少しはアメリカにも慣れていた。しかし、やはりニューヨークは大都会。すべてが珍しかった。

その頃に撮ったポジフィルムをスキャンしてみた。保存状態が良くなかったために埃やフィルムの劣化で、程よい荒れと遣れ感が出ていてこれはこれで昔と言う雰囲気がある。ほぼ4本のポジがあって整理されていないので、適当にスキャンしてみた。最初の写真はTriBeCaのレストラン。トライベッカは当時寂れたダウンタウンだがポツポツと新しい店が出来始めていた。この時にはまだロバート・デ・ニーロのレストランはまだない、もう少し後と記憶している。ややワールドトレードセンターにに近いところに、フォーシーズンズと並び称されたレストランがあって、何度かでかけた。思い出すのは、味ではなく、家内が頼んだサラダから青虫が這い出してきて家内が卒倒したことだ。本当に動いて出てきたから、あんなことは他には経験がない。店は平謝りで、デザートは無料になった。

トライベッカは20世紀の終の頃には、おしゃれな街に変わったが、当時はまだ寂れた通りが多かった。主に食肉工場と倉庫だけ。家内が始めたステンドガラスの店がその寂れた街角にあって何度か車で出かけて手の切れそうなガラスの板を買ってきたことを思い出す。 その店のある通りはまったく店もないような倉庫街で車を停めるのも少し不安だった。当時ステンドガラスの材料の手作りのガラス板をたくさん売っている店はトライベッカとニュージャージーのパターソンという車で1時間くらいの街にしかなかった。

これはSohoあたりのダイナーか。よく覚えていない。映画などでよく見かけるダイナーにはあこがれがあっていくつも行った店があるが、この店には入らなかったと思う。

これはHoustonだろう。綴りは同じで南部の都市はヒューストンでこちらはハウストン。チャイナタウンよりはずっと西で、リンカーントンネルの近く。あまり人通りの無いエリアだ。

Gapの広告があるが、アメリカに行って思ったのはニューヨークだろうとどこだろうとGapの店が数ブロックごとにあることだった。80年代後半には日本でも有名だったが、それほどの数があるとは思ってもいなかった。

大量生産とチエーン化はアメリカの得意技なので、90年代中頃にスタバが蔓延したのと同じような症状で、Gapがはびこっていた。それはこんな写真からも分かるし、今も続いている。日本のユニクロも隆盛とはいえ、あそこまで店舗数を拡大してはいない。次々買い物して所有する際限のない欲望という現代人の慢性病は、いつの頃かアメリカで始まったがこの頃にはGapという形でアメリカに取りついていたのだろう。

しまなみ海道を通って芸予要塞

広島から高速バスを利用して今治まで。途中のしまなみ海道は曇っていたが、きれいな海が見ることができた。実はしまなみ街道を通るのは、初めての経験だった。読んでいた本が面白くて景色をかなり見過ごしたようなので、帰りはしっかり外を見ようと思っている。

バスは案外早くて2時間半で今治に着く。残念なことに、1日に3便しか出ないので選択肢はあまりない。乗ったのは、午前8時10分に広島駅を出発するバス。途中の八幡パーキングエリアで20分ほど休憩をする。新型コロナウィルス新規感染者が増えているせいか、あるいはGoToトラベルが停止したせいか、乗客は少ない。

改札でカードが使えなくて驚く

初めて足を踏み入れる今治は、特に特徴もない、他の多くの日本の街と同じような雰囲気だ。バスから降りて、荷物をコインロッカーに預けると、目的地の1つの小島に向かう。ここで少し驚いたのは、交通カードで予讃線に乗車しようと改札口に行くが、カードをタッチする場所がないことだ。窓口の駅員に聞くと紙の切符以外の方法がないと言うことだった。電車の時間が迫っていたので、慌ててきっぷ販売機に行きチケットを購入する。何とか1時間に1本しかない電車に間に合って、隣の波止浜駅まで。

波止浜駅

ウィキペディアによると、予讃線が通った1924年には、波止浜には塩田開発で儲けた富豪がたくさん住んでいたために、今治から大西へのルートが北へ遠回りすることになったそうだ。

駅から20分ほど歩いて、目的地の小島に向かう定期船に乗ろうとするが、船は出たばかりで1時間ほど間が空いてしまった。仕方なく船着場のそばの波止浜公園まで登るが、頂上からの眺めは木に遮られて、よく見えない。

残念な気持ちで、その小山を降りた。途中には空き家がたくさんあり人口の減少が実感される。坂道の途中には、古いアパートが建っていて、新来島ドックで働く人の住居になっているようだ。ちょうど、お昼時と言うこともあり、中国語を話すたくさんの人が、アパートに帰っていくのとすれ違った。

時間つぶしのために、周辺を歩きまわるが、確かに豪邸が立ち並んでいる。廃屋になった家も多く、取り壊されて蔵だけが残っている空き地をいくつも見かけた。

来島海峡にある小島

ようやく時間になり、10分の船旅で小島に着く。日露戦争に備えて日本の防衛のために築かれた要塞の遺跡を見るために来たのだ。その芸予要塞は、1902年に完成したが、艦船や航空機の発達により、存在意義を失い、1924年に廃止されている。また1920年には要塞にあった大砲は、日露戦争の際の旅順攻略のために移送され、そこで使われたということだった。

そのような経緯で、幸せなことに実際に機能した事は無い。残された建築物はほぼ当時のまま残されている。レンガ造りの要塞の跡地は、「天空の城ラピュタ」を思わせると言うことで、観光客に人気があると言う話だった。

私が行った昨日は、波止浜の船に乗ったのは私と釣り人と小島に住む女性の3人。2人とも私と一緒に小島で船を降りた。その住民の女性には、イノシシが出るかもしれないから、途中で棒を拾って持っていくように勧められた。そんなことだから、小島の船着場から要塞を見て回る間も、誰もいない。一人で要塞の跡地にいるのも、雰囲気があって良かった。

芸予要塞

要塞の遺跡は島に分散して残っており、砲台、発電所、弾薬庫などの施設を見る。海からの攻撃を避けるために、山を掘って低い場所に作られているから、赤レンガ色の施設の場所からは、海が見えない。

中央司令塔が建てられていたが、今は土台を残して何も残っていない。ただその場所は島の1番高いところにあり、しまなみ海道の吊り橋や瀬戸内海がよく見える場所だった。その展望台のような場所から瀬戸内海を見るのが目的だった。しかし、残念なことに、そこに到着して10分も経たないうちに、小雨が降り始めたために、予定よりも早く山降りた。

要塞をつなぐ道は、椿ロードと呼ばれて、椿の季節には花が綺麗だそうだ。今は紅葉の紅葉が美しく、曇り空の下でも木に残った葉と落ち葉が森の中を暖かい色に染めている。

小島の住民は、ウィキペディアによれば33人と言うことだが、要塞に向かう波止場近くの集落は、空き家が目立ち。一緒に船を降りた女性も含めて、集落には人影がなかった。帰りの船を待つ間見かけたのは、一緒に船を降りた釣り人が遠くの防波堤の先で釣りをする姿だけだった。

Leica Summilux 50mm(第2世代)

宮島に行ってきた。天気も良く、観光日和だった。紅葉は進んでいるが最盛期には少し時間がありそうだった。桜で言えば三分咲きといったところか。

厳島神社の海中の鳥居は、修理中で組まれた櫓の中で姿を見ることはできなかった。宮島には見ることろがたくさんあるが、あの鳥居がないと、やはり期待はずれ。

カメラは、今回のデジタルのみで、M-PにSummilux 50mmだけという軽装備。家族旅行だから写真ばかり撮っていられないので、写真は諦めていったのだ。

こういう時はたいていこのレンズを使うことが多いが、35mmに比べると安心して使える。こういう写真だと周辺はやや気になるが、記念写真ならそうも気にならない。第2世代のズミルックス50mmは20数年にわたって製造さているので、中古の個体数も多いので手に入れやすい。レンズ構成など変更されていないので、どの時期でも基本的には、個体差を除いて同じだ。

最近は50mmばかり

前は35mmのズミルックス第1世代が常用だったが、最近は一本だけレンズを使う時は、ほぼズミルックス50mmだ。写真家の高梨豊が唱えたとされる焦点距離年齢説に見事にあっている。とは言え、その年齢はとっくに過ぎているが。

同じ50mmでもノクチルックスだと大きくて大げさなので旅行ではまず使わない。ズミクロンは、持っていても、なぜかf1.4の口径でズミルックスになってしまう。こんなことなら、もう35mmも50mmもズミクロンは不要な気もするが、まだ踏ん切りがつかない。特に探して買った八枚玉なのでなおさらだ。

宮島には2泊した。ゆっくりとあちらこちら見物して、牡蠣や穴子を堪能した。やはりコロナ禍のために観光客は少ないそうだ。いつもの11月ならどこも長い列だというが、並んで待ってもすぐに順番が来る。

出雲大社に行って来た

数十年前に行ったことがあったのだが、その時の記憶は完全に失われており、わずかに覚えていたのは日御碕の白い灯台だけだ。

出雲大社の記憶は完全になくなっており、初めて来たというような印象だった。ただ、あの太いしめ縄が記憶に残っているような気もしたが、多分それも後からどこかで見た記憶と組み合わせているだけだと思う。それではなぜ日御碕灯台を覚えているかと言うと、あてもない旅行で行って、あてもなく車を走らせていると真っ白な灯台に出会って、その時の記憶がインパクトとして残ったのだと思う。

当時はインターネットやスマホも無いし、観光ガイドを見ながら旅行をしたということでも無い。だから灯台を探して行ったのでも無い。

日御碕灯台だけ覚えているというような記憶は不思議なものだ。大抵は覚えていることと忘れたことをついての明確な理由は思い当たらない。その時の旅行も、いくつかの断片の時間がなんとなくあるだけで、ほとんどの事は忘れてしまっている。当然のことながら、その旅行に行ったことを覚えている。誰と行ったかも覚えている。ルートも覚えている。しかし、それぞれの感じた事とか覚えているのは全て断片、しかもそれもつまらないことだ。

有名な観光地に立ち寄ったことは、詳細な感覚としての記憶ではない。その時の状況も見た景色も明確に覚えているものが少ない。覚えていたとしても後からの捏造かもしれない。

断片は、旅行の時に食べた特定の店の焼き鳥の味とか途中で電話をしたこととかつまらないことだ。

どこで読んだのか覚えていないが、ピーク・エンドの法則というのがあり1つの体験についてはその時のピークの感覚と最後の感覚だけが記憶に残り、あとはすべて忘れ去られるということだ。

どんなに長い旅行でも、どんなに長い体験でも基本的に同じで、ピークとエンド以外は忘れられるのだ。

それではピークとエンド以外はいらないと言うことになってしまうが、それでは体験にならない。どんなに忘れられようともその時はその体験を楽しんでいるわけだから、それは重要なことのように思える。人生も1つの長い体験だからピークとエンド以外はいらないと言えないし、言いたくもない。その時その時の感じたことや体験することが、いかに記憶に残らなくても、体験することが大事だ。歳をとると、たくさんのことを忘れていくが、でも、すべて覚えていたらとても不便なことがたくさんあるのだと思う。

だから、本当に大事なこと以外はどんなに楽しくても忘れると言うことも必要なのだろう。

出雲にはそれなりに観光客がいて、GoToが始まったからと言うこともあるのだろう。東京や大阪以外は感染者数も落ち着いていることもあり、観光客はそれなりに多かった。海外からの観光客がいないと言う状況で、国内からの観光客だけで観光業は成り立っているのだから、本当はもっと人手が多い方が望ましいのかもしれない。11月は紅葉の季節で観光のシーズンだから、感染症に十分な対策をした上で、どこかにコロナウィルス疲れを癒すために出かけるのも良いことだろう。

Notting Hillと映画と単語のnot

もうしばらく前にロンドンに拠点を置く会社の仕事をしていた。その時は駐在ではなく、長期出張ベースで行ったり来たりとホテルや短期滞在アパートで暮らしていた。ホテルだと、キッチンがある訳でないので朝食に好きなものが食べられないので困った。ホテルは朝食がついているのだが内容は基本的には同じで1週間も食べていると完全に飽きてしまう。その点、短期アパートだとキッチンがあるので好きなものが食べられるが1週間程度の短期アパートだといろいろと面倒でホテルになる。どちらにせよ良い点、悪い点があるのだが、家にいるより快適ということもない。その年は揉め事多くてともかく疲れていた。

そんな頃の話で週末はやることもないので街中を写真を撮ったりして歩くことになるが、そんな頃にたいていのロンドンの観光地は行ってしまった。ノッテングヒルもそんな観光地だ。そもそもは週末に蚤の市があって中古のカメラも売っていると同僚から聞いたからだ。実際にカメラは売られていたがとても使えるようなものでない古いものかキヤノンやニコンの入門用の機種が多かった。

でも街の雰囲気も良いしレストランやパブもある。さらに滞在しているロンドンの中心部からもそう遠くないということもあり昼も夜も時々出かけた。最も夜は閉まっている店が多いので夕方に行って夜までいただけなのだが。

それで興味が出て東京に帰っている時に映画の「ノッテングヒルの恋人たち」を見返してみた。原題は「Notting Hill」で邦題は「ノッテングヒルの恋人たち」、1999年の製作だからずいぶん古い映画だ。要はロンドンでもおしゃれな場所ということなのだろう。映画を見ると見慣れた景色があちこちに登場する。ノッテングヒルだけではなくメイフェアのリッツ・ホテルなど他の地域も登場して面白い。それで次のロンドン滞在中に撮影場所を探してみた。物語の舞台の、ヒュー・グラントが経営している書店のモデルの店は実際は別の場所にあり、そこでたくさんの観光客が記念撮影をしていた。映画の設定の旅行の本専門店ということだからもしかすると映画の後でできた可能性もある。撮影でその書店として使われた店は、面影はあるもののまったく別の商売になっている。これは当然か、撮影に場所を貸しただけだから。それから、彼が住んでいてジュリア・ロバーツが泊まる自宅も青いドアで映画の姿のまままだあった。映画の聖地巡礼という言葉を知ったのは、ノッテングヒルめぐりの前だったか後だったか。

この地名のNottingが気になったことがあって調べたが分からなかった。ノッテングヒルのあたりはなだらかな丘になっているので、「結ぶ」のknotからkが落ちたのかしらとずっと思っている。

上の写真は、映画に出てくる旅行の本だけを扱う書店が撮影された店舗。下は、ヒューグラントが住んでいた自宅。玄関の上にパーティをやった屋上が見える。