自転車検討中

自転車を買うこと検討中だ。週末はなるべく1時間は自転車に乗ろうと努力している。もちろん天気の良い日だけだ。家から東西南北、すべての方向に出かけている。カメラを必ず持っていくが最近はあまり撮れていない。海外で大量に撮影した反動か、その結果、撮るものが変わってしまったのかフィルムの消費量が落ちている。

それはともかく自転車の話だ。自転車もマンネリ気味で出かけるのが面白くなくなってきた。一番よく出かけるのは東京都写真美術館と代官山の蔦屋だが、写真美術館は年間会員になっているとは言え、そう毎週も行けるところではない。

今乗っているのは古いマウンテンバイクだ。それを買ってからアメリカの大学に行った際にキャンパスがあまりにも広いのでキャノンデールのロードレーサーを買った。その自転車はニューヨーク駐在時代まで乗って帰国する際に友人に譲った。なので、現時点で持っているのはマウンテンバイク1台。サイクリングのマンネリ状態を受けて、検討しているのは輪行をするということだ。真っ先に思いついたのはロンドンに長期出張していた時に、購入を検討してロンドンの自転車に何度も見に行ったブロンプトンだ。ただ、郊外に輪行しようと思うと考えるのは小径のタイヤの自転車で良いかどうかということ。友人に聞いたりネットで調べたり、ただ今、情報収集中。

小径もブロンプトンだけではないし、最近は折畳みでも電動車もある。フルサイズにして本格的に輪行という選択肢もある。迷って結論が出せないでいる。

荒木町

久し振りの友人と会食。場所は相談して荒木町へ。このところ足が遠のいていて数年ぶりだ。新宿通りの反対側の須賀神社は昨年ヒットした「君の名は」で有名になったが、おじさんの街の荒木町はもちろん映画には出てこない。

この日はドイツビールの店と寿司屋を訪問。どちらもおいしかった。昔は野菜鍋の店やイタリアン、焼き鳥とかに通っていたが、イタリアンは有名な店になってどこかに移転してその後行っていない。それで言えば、坂の一番下のエリマキラーメンも行かなくなって何十年もたつ気がする。夜中にラーメンを食べる習慣があったのは今世紀の初めまでだ。

友人との話は近況の交換だが、新しい事業を開始したことやその企画の発端、苦労話など話を聞く方が主であっという間に時間が過ぎた。話に出たアイディアを話し合うための近日中の再会を約束して家路についた。今週は夜の会が多くてちょっと疲れ気味だ。

写真はロンドン、トラファルガー広場

感度分の16

感度分の16とはフィルム感度(ISO)を分母としたシャッタースピードと晴天なら絞り16という意味だ。ISO400を使っていれば1/400だがカメラにはふつうはこのシャッタースピードがないので、1/250で代用する。これを曇りなら絞りを11とか日陰なら5.6とかに調整し、室内では窓際ならISO400で、シャッタースピードを1/60、絞りを5.6というように設定する。大体の明るさと対応するシャッタースピードと絞りの組み合わせを覚えていって、最終的には露出計なしで感覚的に撮影する方法のことだ。これを知ったのは渡部さとるさんの「旅するカメラ」という本の中だ。以来、露出計は使わずライカM6は電池を抜いて使っている。

渡部さんの「旅するカメラ」はシリーズ4冊となっていて写真やカメラが好きなら読んでみると面白いこと間違いない。作家として写真展を定期的に開いているので覗いてみることをお勧めする。モノクロのプリントの美しさに感動するはずだ。

モノクロフィルムはラチチュードが広いので光の読み方を間違えても大きく外すことはないし、心配なら少しずらしたカットも撮っておけばよいし、たまには被写界深度のために通常よりシャッタスピードを落として絞りを絞るというようなこともやっている。それから、ここぞという時には数カット撮っておかないとフィルムが現像の際に傷ついたりプリントの際に傷つけたりということもあるので安心のために絞りやシャッタースピードを少しずらして撮っとくことも多い。

肝心なことは写真とは光の明るさと方向をよく読んで撮ることが重要なので、感度分の16で撮ることを心掛けると写真の撮り方も変わってくる。

画角の好み

年齢で画角の好みが変わるという説があるが、最近の個人的なレンズ選択を見ているとそれが正しい気がしてきた。元々はライカでは35mm一辺倒。絞ってノーファインダーも含めてピント合わせなしで撮って来た。ファインダーを覗いて構える時もピントではなく水平だけを気にしていた。

それが最近は外出時につけるのは50mmのレンズということが多くなってきた。大抵は一番好きなズミルックス50mmだ。これが少し夕方から出かけるというとノクティルックスに代わる。ここの0.4fの差はあまり関係なくて単に気持ちの問題だ。50mmは他にもライカで2本、非ライカで3本持っているが出番はあまりない。

この画角の好みは年齢で変わるということの意味はよくわからないのだが、最近は風景的な対象ではなく人物を入れた写真が好みになってきたので、それが原因かもしれない。

50mmがなぜ標準画角かは、最近よく読んでいる「写真のネタ帳」のここに詳しい。説がいくつもあるということは決定的な理由がないということでもある。

その「写真のネタ帳」では、肉眼の視野に近いとする説、対角線長に基づくとする説、レンズ特性による説を説明して、それから本来の正方形に対しての対角線長として50.9mmを導いている。つまりレンズのイメージサークルに入る正方形の対角線長としての50.9mmなのだが、個人的には現在のライカ版のフィルムサイズができたときに作りやすいレンズが50mmで使ってみたらよい感じかなということで50mmが標準になったいうのは技術者を軽く見ているのだろうか。

どちらにせよ、このところ50mmが心地よく、今まで使っていたズミルックスやズミクロンの35mmはお留守番が多くなった。

 

Notting Hillと映画と単語のnot

もうしばらく前にロンドンに拠点を置く会社の仕事をしていた。その時は駐在ではなく、長期出張ベースで行ったり来たりとホテルや短期滞在アパートで暮らしていた。ホテルだと、キッチンがある訳でないので朝食に好きなものが食べられないので困った。ホテルは朝食がついているのだが内容は基本的には同じで1週間も食べていると完全に飽きてしまう。その点、短期アパートだとキッチンがあるので好きなものが食べられるが1週間程度の短期アパートだといろいろと面倒でホテルになる。どちらにせよ良い点、悪い点があるのだが、家にいるより快適ということもない。その年は揉め事多くてともかく疲れていた。

そんな頃の話で週末はやることもないので街中を写真を撮ったりして歩くことになるが、そんな頃にたいていのロンドンの観光地は行ってしまった。ノッテングヒルもそんな観光地だ。そもそもは週末に蚤の市があって中古のカメラも売っていると同僚から聞いたからだ。実際にカメラは売られていたがとても使えるようなものでない古いものかキヤノンやニコンの入門用の機種が多かった。

でも街の雰囲気も良いしレストランやパブもある。さらに滞在しているロンドンの中心部からもそう遠くないということもあり昼も夜も時々出かけた。最も夜は閉まっている店が多いので夕方に行って夜までいただけなのだが。

それで興味が出て東京に帰っている時に映画の「ノッテングヒルの恋人たち」を見返してみた。原題は「Notting Hill」で邦題は「ノッテングヒルの恋人たち」、1999年の製作だからずいぶん古い映画だ。要はロンドンでもおしゃれな場所ということなのだろう。映画を見ると見慣れた景色があちこちに登場する。ノッテングヒルだけではなくメイフェアのリッツ・ホテルなど他の地域も登場して面白い。それで次のロンドン滞在中に撮影場所を探してみた。物語の舞台の、ヒュー・グラントが経営している書店のモデルの店は実際は別の場所にあり、そこでたくさんの観光客が記念撮影をしていた。映画の設定の旅行の本専門店ということだからもしかすると映画の後でできた可能性もある。撮影でその書店として使われた店は、面影はあるもののまったく別の商売になっている。これは当然か、撮影に場所を貸しただけだから。それから、彼が住んでいてジュリア・ロバーツが泊まる自宅も青いドアで映画の姿のまままだあった。映画の聖地巡礼という言葉を知ったのは、ノッテングヒルめぐりの前だったか後だったか。

この地名のNottingが気になったことがあって調べたが分からなかった。ノッテングヒルのあたりはなだらかな丘になっているので、「結ぶ」のknotからkが落ちたのかしらとずっと思っている。

上の写真は、映画に出てくる旅行の本だけを扱う書店が撮影された店舗。下は、ヒューグラントが住んでいた自宅。玄関の上にパーティをやった屋上が見える。

テロリズムの時代

先日のパリでは、迷彩服の6人の兵隊が隊列を組み機関銃を構えて街中をパトロールするのに何度も出くわしたり、地下鉄の駅で職務質問をしているところを見たり、大きな施設では手荷物チェックがあり鞄を開けて見せなければならなかった。ルーブルは金属探知機をくぐり手荷物は飛行場のようなX線検査機をくぐらせた。このために予約のない人はルーブルのチケット売り場にたどり着くまでに1時間以上は列に並んでいたようだ。個人的には、あまり人が多く集まる観光地に用はなかったのだが、それでも2015年のテロの影響は見ることができた。

それが、帰ってすぐのシャンゼリゼでの銃撃戦である。警官が撃たれて死んだと報じられたが、そんなにすぐに起こると思わなかった。

現代という時代はテロリズムと同居の毎日である。日本はというとテレビでは毎日、ミサイルが飛んできた時の注意が放送されている。そういうものを聞きながら、ケネディ政権下のキューバ危機について考えていた。キューバ危機は、戦争直前まで行ったとは言え危機にあったのは2週間程度、事件が完全に収束するミサイルの撤去まで入れても一か月と少しの出来事であった。日本は、これから何か月もあるいは何年もミサイルの危機に怯えて暮らすのか思うと気が重くなる。こういう世の中の落ち着かない気分が日本人の気持ちや芸術、経済活動にどのような影響を及ぼすのか関係ないのか。そんなことも気になる。

ジョン・サマヴィル「人類危機の十三日間」やその元になったと言われる「13日間―キューバ危機回顧録」 ロバート ケネディが思い浮かぶが、この北朝鮮ミサイル危機は何か作品を生み出すのか、それともぼんやりとこの危機を受け止めて何も残さないのか興味がある。

写真はパリのサンマルタン運河。パナマ運河のような閘門式運河である。リパブリックでメトロを降りて東側に行くと中華街のような好きなエリアがあるが、今回もその方向に足が向いた。ただし午前中だったので多くの店は閉まっていて写真を少し撮って素通り。このそばの通りの市場も休みの日なのか店はでていなかった。その後、地下鉄でアリグレ・マーケットまで行ってランチをとった。

今回の旅行では美術館へ行くのがメインなので食事は美術館で簡単に食べたのと、間の2日間で少し街歩きの時に、アリグレ・マーケットの市場、それからダゲール通りの市場とバスティーユ北側の市場のそばのレストランで食事した。市場のカウンターはバルセロナのような食欲をそそる食材ではなくサンドイッチなどが多く残念ながらパスした。

どこも時たま現れる兵士を除けばのどかな観光地そのものだが、いつどこに恐怖が現れるかどうかわからないという点で私たちはテロリズムの時代を生きている。

 

写真の物質性

今年、デジタルライカを買ってからデジタル写真も増えてきた。デジタルはPCで表示して見ることができるので、あまりプリントしない。一方、フィルムは現像しただけだとネガなので良くは分からない。なのでペタを取ってコマを選んでワークプリントしてようやく写真として分かってくる。

ここから考えるのは、アナログ写真の物質性のこと。フィルムを使って撮って、何かにプリントする。大抵は紙か紙のようなものだが、液状の乳剤を暗室で塗れば、どんなものにでもプリントできる。これをやろうと思っているが、まだ作業にはかかっていない。フィルムや印画紙が無くなったら、自分で作って写真を続けるために今から練習をしておかなければ。

アナログでは写真を作るすべてのプロセスで物質が絡んでくることが、デジタルとは違う。手で触れられる写真はデジタルでもプリンターでプリントできるが、化学反応によって作るられる物質としての写真は、デジタルよりも一回性が高い。引き伸しの露光時間は正確にコントロールできても、現像時間、温度や処理液の疲労など、変数が多いからだ。もし覆い焼きや焼き込みをしたら、完全に同じものは一回しかできない。一方デジタルでは、設定を保存すればある程度の量産は可能だろう。

ユーミンの歌の「泣きながらちぎった写真を手の中でつなげてみる」写真は、歌の当時がアナログ写真だったからではなく、 別れた恋人の象徴性はアナログの物質としての写真でなければいけない。一回性の高いアナログプリントには、デジタルの今となってみるとアウラが残っている。

たとえ、制作過程で背中が痛くなっても。

感度分の16で有名な写真家の渡部さとる氏が、twitterで#from2bのタグで写真について呟いているが、写真の作品制作についてだ。あるいはモノクロで撮る意味などだ。氏のつぶやきをきっかけに話題が盛り上がっている。私も前から人になぜ写真を撮るかよく聞かれるので、写真を撮ることについて考えていた。だたし、写真は作品だけではない。

写真には三種類あると考えている。一番は当然、記録としての写真だ。二番は美術作品としての写真。それから三番目にカメラの試写としての写真だ。

記録としての写真の幅は割と広くて、報道などの社会性の高い写真はは別にして、個人にとっては、もちろん自分の記録、記憶の代用ということはまず一番だ。上の中国の写真のように記念写真が代表的だ。ただ自分が写っていなくても、その場所に存在したという証拠写真として、その場の風景や物を撮るのもその亜流だし、それから、その場面・景色・時間・対象を所有したいという欲求を画像として持つことでかなえるということも含まれる。コレクションとして鳥の写真を撮って画像をためてゆくなどが所有の写真の典型だ。画像が対象の代替物というわけだ。

二番目は作品。写真を自己表現に使って作品を残すと言うこと。ただ、これも簡単なようで範囲は広い。それは、写真という作品がカメラという工業製品に依存としているために、他の表現形式に比べて参入障壁が低く、たとえ個人の技術が無くても作品らしきものが作れてしまうからだ。画でも音楽でもある程度の技術の習得が表現の前に必要だが、写真の場合には高い人間的な技術と低いそれとの差が分り難い。カメラが優秀ということもあるが、写真の特性として被写体に依って作品が成立する可能性が高いということも影響すると思われる。

最後の試写としての写真とは、要は機械としてのカメラ好きが撮る写真だ。このカテゴリーはどちらかというと私の写真のカテゴリーだ。ぼろぼろのカメラが写るかとか、このレンズはあれと比べて違う写りをするかを比べてみるとかだ。f1.4の好みのレンズを使って夕方とか夜に写真を撮って、どれだけ写るか試すなどもそうだ。だから相も変わらずの写真ばかり量産することになる。

写真はx100を持って行ったダブリン。フィルムがメインだったが、現像しただけでまだべたも取っていない。

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ロンドンのクリスマス装飾

11月のロンドンはすでにクリスマスの装飾が始まっていた。一番Regent StreetとOxford Streetの交差点の賑やかなOxford Circus は光の装飾が今年も美しい。この交差点は、東京の渋谷の交差点を参考にして昨年よりスクランブル交差点となったのだが、相変わらず斜めに横断する人は少ない。

ロンドンの年間の観光客数は、2015年の数字で1,882万人ということで日本全体の年間観光客数とそう変わらない。Oxford Circusは観光客が圧倒的に多い場所だから、スクランブル交差点が分からない人が多いからかもしれない。

写真を撮った後でロンドンに行くとよく行くレストランで生カキとワインを楽しんで帰ってきた。

ロンドンで見たスポーツ

ロンドン滞在は1週間と少しだが、その期間にいくつかスポーツを見に行くチャンスがあった。まずは、ラグビーのイングランド対南アフリカのテストマッチ。イングランドは、日本の前監督エディ・ジョーンズが監督になって10連勝がかかる試合だった。このところ不調の南アフリカに対して絶好調のイングランドは簡単に点を取っていって危なげなく快勝した。選手があまり変わっていないないにも拘わらず、今年のシックスネイションでも全勝優勝を飾るなどエディ・ジョーンズが監督なって大きく変わった。ラグビーというスポーツは監督で大きく変わるようだ。選手の入場も見たのだが、ツウィッケナムのスタジアムの入るチームメンバーの誰にも増してエディ・ジョーンズへの拍手と歓声が大きかった。その後もイングランドは勝ち続け、現時点では連勝を12まで伸ばし、イングランド協会の記録になっている。

その次に見に行ったのはウエンブリーでのイングランド対スペインのフレンドリーマッチ。これもイングランドが頑張って攻めに攻めて2-0で終盤まで来たが試合終了間際のスペインの2点でドロー。まあ良い試合といえるだろう。ツウィッケナムに比べて一回り大きい9万人のスタジアムはいつ見ても美しいスタジアムだが、今回も満員だった。

最後に見たのは、O2アリーナのATPツアーファイナルの予選ラウンドの錦織対マレーの試合。これは接戦の末に第一セットを錦織が取り勝利を予感させたが、惜しいところでポイントを落としたことがたたって逆転負けを喫した。とは言えその差はほんの少しで錦織がいつ勝ってもおかしくはないと感じた。マレーはその後も勝ち進み2016年の王座を手にしたことを考えると錦織の落とした星は惜しいが、価値のある負けとも思えた。

今回行った3つのスポーツ施設は、中心から30分程度で行ける場所にあり。ラグビーのツウィッケナムは8万人、サッカーのウエンブリーは9万人、汎用アリーナのO2アリーナは2万人と東京のどのスポーツ施設より質・量ともに勝っている。オリンピックをめぐるスポーツ施設への巨額の投資が問題になっているが、東京が世界の中でも観光客にも魅力があり、活気のある住みやすい街でいるためには考えなければいけないと思った。

写真のテーマとモチーフ

先日、貸暗室に行った際にニコンサロンに応募する人がまとめをするのを見ていて、しばらく話したのだが、作品のまとめをするという意味ですごく突き詰めて考えていて、話していても何をしているかがはっきり伝わってくる。つまり写真を使って何かを表現する意志が明確ということなのだ。

表現を広辞苑で調べると、
ひょう-げん【表現】
心的状態・過程または性格・志向・意味など総じて精神的・主体的なものを、外面的・感性的形象として表すこと。また、この客観的・感性的形象そのもの、すなわち表情・身振り・動作・言語・手跡・作品など。表出。 【広辞苑】

つまり、自分の内面にあるものを何か、この場合は写真を使って、外面に表すことということだが、果たして自分はそれをしているか疑問になる。

プリントしてピンとこないのは、表現になっていないからなのだが、街を撮るというテーマははっきりしていると思うので、時々言われるモチーフは何かがはっきりしていないのだと最近思うようになった。

Wikipediaによれば

モチーフ(モティーフ)
motif – 動機、理由、主題という意味のフランス語の単語。
絵画・彫刻などの芸術作品で、表現の動機・きっかけとなった、中心的な思想・思い。 ということのようだが、中心的思想に基づいて写真を撮っているような気がしない。なので、ネガを見てもばらばらと雑多な情景の集合になっているような気がする。

やはり、いつも聞かれる「なぜ写真を撮るのか」という問いかけに答えないと、自分でさえピンとこないような写真になるということのようだ。

そもそも、作品を作ろうという大それた野望もなく写真を撮っているのだから、あまり考えずにのんびりとプリントすれば良いのだが、周りにはもっと突き詰めて作品を作ろうという人がたくさんいるので、影響されてしまう。

福岡伸一さんによれば、プロと言われる人は、1万時間をそのことにかけて、やっとプロになるのだそうだ。毎日3時間で1年で1千時間、それを10年でやっと1万時間。暗室作業をならって、まだ2年半ほどだし、1日3時間などまったくできていないので、初学者の初学者だから当然と言えば当然なのだが、もう少し考えて写真を撮ることも必要かもしれない。目の前の光に単純に反応しているだけで、モチーフについては何も考えていないのが現状だ。