夕陽に雑草

Summilux f1.4 50mmのフレア

ズミルックス50mm f1.4第2世代は1961年から30年に亘って販売されたレンズだ。35mmは第一世代のズミルックスを使っているが、50mmの第一世代は非常にレアなので50mmはでもの多い第二世代だ。第一世代を使ったことがないので違いがわからないが、第二世代も第一世代と同様に空気レンズが使われており、写りは大きくは違わないと聞いたことがある。

このズミルックス50mm f1.4は、50mmが普段使うことが多い焦点距離であり、またノクチルックスなどと違い鏡胴コンパクトで軽いので常用のレンズとなっている。前に書いたが35mmを普通に使っていた頃はズミルックス35mm f1.4が常用だっや。

いつものように夕方の散歩に50mmで出掛けたのだが、見てみると盛大なフレアが出ている。基本的にフードを使わないで写真は撮らないのでフレアやゴーストが発生することは珍しいが、夕方の太陽の位置でこのようなことが起こったのかもしれない。

失敗写真というのは簡単だが、見てみると美しい。残念なのは、このフレアの発生をコントロールできないことだ。これを自由に使えたら面白い写真がいつでも撮れる。多くの人にとってはこのような現象は失敗であり、出来の悪いレンズということになるだろう。事実、今の技術が進んだレンズや優れたコーティングがされているレンズでは、太陽を画角に入れてもこのような現象は発生しない。

古いレンズを使っていてこのようなことが起きるのが好きだし、あまり写りすぎないカメラやレンズが好きだ。

有名なロバート・キャパのノルマンディー上陸作戦の写真も現像の際に早く乾かすために温度を上げすぎてネガが溶けて今私たちが見るような粒子が荒く、ボケたような写真になっているが、あれも写っていないことが多いから迫力や緊迫感を感じる。

だからといて、このフレアの写真が傑作だと言っているわけではない。

東京都写真美術館「山崎博 計画と偶然」

天気が良い週末で時間もあったので恵比寿の東京都写真美術館まで「山崎博 計画と偶然」を見に出かける。昨年、再オープンした際に入った年間パスポートが3月31日で切れていて更新。3,240円也。年間パスポートで所蔵展は無料になるのだが、「山崎博 計画と偶然」は予想に反して所蔵展だった。何故か得をした気になるが得をするために年間パスポートを買っている訳ではないのでどちらでも良いか。

「山崎博 計画と偶然」を見に行ったのは、「水平線採集」というシリーズ」を見に行ったのだがモノクロからカラーまでたくさんあってなかなかの圧巻。前から気になっていたのは杉本博司との違い。山崎の作品はカラーがあることもそうだし、たくさんのディテイルがありこの作家のお得意の長時間露光の太陽の軌跡が入ったものもある。それを見るとやはり杉本のほうが余計なものはそぎ落とした感覚で海と空とその境の水平線以外に余計なものは大型カメラにも関わらず写っていないので似た作品が違いは大きいと感じた。

1980年に杉本博司はSeascapeの撮影を始めたそうなので、1970年代もある山崎博の方がやや早いようだが、いずれにしてもコンセプトも手法も違うので同じように見えて違い作品群と感じた。

連休の始まりは天気も良く土曜日に少し小雨が短い時間降ったが非常に爽やか。この天気が数か月くらい続くのがありがたいが、すぐに湿度が高い日本の夏がやってくる。

英語になった日本語

レンズで使う「ボケ」という言葉は、英語でも「bokeh」という言葉として同じ意味でレンズの説明の時に使われる。なぜ日本語のボケが英語になるかというと多分、そういう概念が海外にないからだろう。写真は写真であってボケを味わうために撮るのは本末転倒というのが正統的な写真の撮り方と思うが、日本では日本人のまじめな性格が影響してレンズの性能を試したり写り方を比べたりということが遊びの中心になって表現とは別の写真の写りを追求することが写真の撮り方になってきたということかもしれない。

英語になった言葉としてはたくさんあって最近の流行ではkaroshiとかkawaii。古いと思われるのは、hancho。「班長」から来たと思われるが、そもそも日本語としてもあまり使われなくなってきているから英語になったのはずいぶん前と想像される。

写真はSummilux 50mm 第二世代

「写真で何がやりたいのでしょうね?」

二日酔いを覚ますために近所をカメラを持って歩いたのだが、撮った写真も同じようなものだ。

何がいけないかとというと、簡単に言うと「花鳥風月」。美しいものもあるが、何かあるわけではないし、同じような写真は無数にある。それから、明確な対象が写っていない抒情的な写真。これも たくさん撮っている。昨年の今頃は壁に写った影ばかり撮ってプリントしていた。なのでプリントしていても意気は上がらない。問題はでは何を撮れば良いの か。

写真を見ていただいている写真家の先生に、いつも聞かれる。 「写真で何がやりたいのでしょうね?」でも、何も答えられない。考えて見ると多分、シャッターを押してフィルムに光が記録されること自体が好きなのだ。 撮っているものは花鳥風月は避けようと思いつつも、凡人の美的感覚(つまり社会から与えられたもの)に引きずられる。独自の世界の見方が自分に備わってい ると感じない。

基本的にはシャッターを押すのは光が美しいと感じた瞬間で、特に写っているものにこだわりがあるわけではない。だから結果的に花鳥風月もあるし、抒情的なケースもある。ただ、世界にあふれる光を写して、写真として美しいものが撮れればと願っているのだ

写真は「窓か鏡か」という議論があり、MOMAの写真部長だったシャコフスキーは、「窓と鏡」という論文を書き、そのタイトルで写真展を開いた。つまり写真 は自分を見つめる鏡である場合と、世界をの覗いて何かを見つける窓であるというのだ。私の場合にはどちらもできず、部屋の中で落書きを書いているような気もしてくる。

とりあえず昨年末のネガをプリントしてもう 少し、写真で何がしたいのか考える必要がありそうだ。もしかすると過去に撮ったネガを見直して、あるかもしれない宝を探すという方法もあるかもしれない。 大抵36コマ撮って数枚しか六切りのワークプリントを作っていない。ベタで写真が分かるほどのプロではないので、可能性のあるものを見つけてワークプリン トを作るというlことも必要かもしれない。でも整理が悪くで積んだままなので、どこから手をつけて良いかも分からない。とりあえず今は忙しすぎるのかもしれない。

 

ふるさと納税でライカマウントレンズ

長野県中野市が始めたのは、ふるさと納税の礼品にコシナのレンズを使うというもの。ふるさと納税は周りでも何人かがやっていて知ってはいたが、農産物やお肉をもらってもとか、なんとかなく面倒という感じがして全く興味がなかったのだが、コシナのフォクトレンダーと聞いては関心が湧く。

それで中野市のサイトに行ってみるとニコン、キヤノン、ソニーのマントのレンズもありフォクトレンダーも何種類かある。それで他のサイトに行って納税可能額を調べてみたらレンズがもらえるだけは十分あることが分かったので早速申し込んだ。この間わずか10分以内。

申し込んだのはフォクトレンダーの50mm1.1fのレンズ。このところ35mmより50mmをよく使うのでちょうど良かった。2週間程度で届くというので楽しみだ。それで支払った額は来年の税金から差し引かれるので買った訳ではない。東京から中野市に支払先を変えただけだからむしろ良いことをした気がして気持ち良い。

蜂蜜とブラックスワン

大病を患った友人から免疫についての本のコピーをもらった。その本を手本にして病気がぶり返さないように免疫に気をつけて生活しているそうだ。参考 にということでいただいたので読んでみた。健康法にはきっと色々な理論や考えがあるのだろうが、この本では魚、野菜、木の子をたくさん食べて塩分はさける ということのようだ。個人的には理にかなった食習慣だと思うので可能なことは取り入れようと思った。

その中で一つ気になったのは、蜂蜜を免疫を高める食品として勧めていたこと。ずっと前に蜂蜜は砂糖と同じで何の栄養もないと読んだことがあり、ずっと蜂蜜を避けてきた。アイスクリームや砂糖は エンプティ・カロリーという言い方をするが、同じようにカロリーは高いが何の栄養素も含まれていない空っぽの食品と理解してきたのだ。

それ が、今回、免疫を高める物質が含まれていると紹介されて信じる気になったのは、きっとナシム・ニコラス・タレブの「ブラックスワン」の影響だ。その本の中で、何かがないことを証明するのは大変難しいという例として、かつては母乳には何も有益な物質は含まれていないと言われ、多くの人は母乳ではなく粉ミルクに換えたり、食物繊 維は何の働きもしないと言われ、重要視されてこなかったことが語られる。その食品のメリットの証明はできても、メリットの不在の証明は難しいのだそうだ。 だから何の効用のないと思われた母乳や食物繊維は重要な効能があることは後から分かってきた。

もちろんタレブは健康食品の話を書いた訳では なくて、歴史上にはかつて経験したことことがないような出来事や想像もできなかった現象が起こりえて、特に株価やあるサービスや本と言った社会的現象に起 こる不確実性について書いた。その例はたとえばキリスト教の爆発的な普及やグーグルの成功などだ。それを彼はブラックスワンと呼んだのだが、不確実性の予 測の際に、今まで無かったからとか、理論的に不在が証明できるからとかの理由でブラックスワン的なことが存在しえないということは間違っているということ を主張したのだ。何かが無いと断言することは、何かがあると断言するよりずっと困難なことだそうだ。

彼の主張のように蜂蜜に有用な物質が含 まれていないという証明は難しいということから、今まで空っぽのカロリーと思っていた蜂蜜を、このところ朝ごはんのパンにつけて食べている。本の重要なポ イントではなく、その不確実性の主張の説明のためのたとえ話に影響されて、あっさり宗旨替えというのも、ポイントを外しまくる自分らしいなと納得。今はスプーンに一杯だが毎朝食べている。だからと言って健康になった感じまはまだまったくない。